●書名:冬の巡礼
●著者:志水辰夫
●版元:角川文庫
●出版:97年10月(単行本94年10月)
●定価:546円(税込)
●評価:400円以下なら
列車を下りたのは3人。わたしをのぞくふたりは女子学生と五十年配のショールをかぶった女性で、いかにももの慣れた足取りで駅舎を出るとすぐさまいなくなった。<略>誰もいない待合室の中で石油ストーブが燃えていた。<略>駅周辺にはひとっ子ひとり見あたらなかった。 (3-4ページ)この冒頭の描写で、私はあいづ球場に行ったときのことを思い出しました。私が下りた無人駅は会津鉄道の南若松駅でした。季節は冬ではなく夏。下りたのは私を含めて2人です。第1試合に間に合うように球場に着くにはこの電車しかないはずなのに、始発駅の西若松駅ではそれらしい乗客が見当たりませんでした。
私は不安に襲われていました。 実は私は地図を忘れていたのです。第1試合は10:30開始予定です。南若松駅到着は10:03で、駅から球場まではまっすぐ約1キロですから、場内アナウンスにちょうど間に合う頃合いです。時間帯からして、どうせ乗客の誰かしら球場へ行くに違いないと踏んでいたら、とんでもない話です。
一緒に下りたお爺ちゃんは、駅前広場?で周辺施設の案内板を探している私を追い越して軽やかな足取りでずんずん進んでいきました。駅前の通りは交通量が比較的多いのですが、車の往来は激しいのに、歩いている人がいないのです。まあ、田舎ではよくあることです…。
駅前には店もないので、誰にも聞けません。あいづ球場には照明設備がありませんから、照明灯を頼りに進路をとることもできません。駅に引き返して待合室を覗いてみましたが、電車は出たばかりです。誰もいなくて当然です。室内の掲示物では球場の場所はわかりません。私は1人取り残されたのでした。
困り果てていたら、高校生らしい白シャツを乗せた貸切バスが踏切を越えて右側に進んでいくのが見えました。迷っていても仕方がないので、あとを追うことにしました。しばらく歩くと、向こう側からチャリが来るのが見えました。これを逃してはなりません。私は歩を早めました。なんと、舞い降りたはずの天使は20m先の信号で右折してしまったのです。
「おーい、待ってくれ~」と叫びたいのをこらえていたら、道路の反対側の家で庭の草むしりをしているお婆ちゃんが目に入りました。天使は身近なところにいたのです。赤信号で停車した車を縫って、私は反対側に渡りました。言葉はあまりよくわかりませんでしたが、指さした方向は私の判断と同じでした。
さて、この小説は野球とはまったく関係ありません。志水辰夫を最初に読んだのは『飢えて狼』だったはずです。私の中では、泡坂妻夫、天藤真と並んで国内ミステリーのビッグ3であって、2人を出した以上は志水辰夫も出さざるを得ないわけです。 ちょうど先日、まだ読んでいない本書を古本屋で見つけました。250円でした。
主人公の「わたし」は菅井工務店の契約社員です。下請けの城南建設作業員・坂倉博光が謎の死を遂げます。特別に親しかったわけではないのに、坂倉は死の前日、「わたし」に実家の住所を記したメモとともに位牌を預けていました。
「わたし」はその位牌を坂倉の母に届けるべく、雪深い飛騨高山の無人駅に下り立ったわけです。「わたし」はそこから命の危険にさらされますが、同じように無人駅で下りても位牌を預かっていなかった私には何事も起きませんでした。私はただ青春18きっぷを使いこなしただけでした。
この小説では「わたし」の勤務先の社長が魅力的な人物として描かれています。
喧嘩やもめごとは大好きで、いまでも仲裁など頼まれたら喜んですっ飛んで行くし、秩序や抑制や努力など大嫌いという連中を仕切らせたらそれは大変なものだ。 (180ページ)
事件を匂わせただけで、隠匿されている金の匂いを嗅ぎ取ってしまったのだ。本人はその金が欲しいとか、分け前に預ろうととかいう魂胆があって出しゃばってきたわけではない。こういう話になるとわくわくして、自分も一枚加わりたいだけなのである。だからわたしのすることにブレーキは絶対かけない。人を焚きつけたり、あおったり、事件が面白くなればなるほどうれしがる。もしそれで私が監獄へ放り込まれる羽目になったとしても、彼なら赤飯を炊いて送り出してくれるにちがいなかった。 (196-197ページ)
何を思ったか、独りごとみたいな声でつぶやいた。「女はいいよ。男の最後の逃げ場は女しかないんだ」この社長さんが事件の解決に活躍するのかと思っていたら、まったく期待はずれでした。志水辰夫の小説はハッピーエンドとは限りません。そうでないことが多いかもしれません。まあ、結末は書きませんが…。
名古屋にやってきた正体を見たと思った。このじいさん、まだまだ枯れていなかったのだ。この脂ぎった顔は、現役で通用している何よりの証拠だった。 (206ページ)